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タミチャン社長、がんばれ!

ナリタブライアンの3冠奪取した1994年のことを思い出したら、急にタミちゃんのことが頭に浮かんだ。

タミちゃんは広告制作会社の社長。もう26年来の付き合いだ。私たちが知り合ったのが、高田の馬場のビックbox近くに事務所を構えたアジア・アフリカ作家会議。その時の会長が今は亡き「狭山裁判」の野間宏先生。事務局長が小中陽太郎先生。

2DKばかりのオフィスで写植を打っていたのがタミちゃん。アジア・アフリカで生きる作家たちを支援し、守っていこうと、青春のエネルギーをぶつけて私たちは戦っていた。オフィス近くの「異邦人」というスナックにもよく行った。今はリメイクされてザードが唄っている当時のヒット曲「異邦人」もよく巷に流れていた。新宿ゴールデン街にもよく行った。とにかく飲むのが好きな私たちは夜を徹して飲み歩いた。詩人でもあるタミちゃんからは世界中の詩の美しさを教えてもらった。

そんなタミちゃんが、全ての仕事を捨てて大阪行きを決意した時はびっくりだった。彼女に何がおきたかは後になってわかったが、当時私は26歳という若さで結婚し、お腹の中に新しい命が宿っていた。

大阪でタミちゃんは編集、ライター、デザインというスキルを生かして、たった一人で企業を起こした。パブリシティ用の広告もたった一人で歩き回り、各家庭の郵便ポストにいれて宣伝した。今思えば、誰も知らない大阪という街で、たった一人で戦っていた姿を想像すると…、胸がつまる。

タミちゃんの努力はどんどん実っていった。生来お人よし、天真爛漫、明るく素直な性格が未知の大阪でも歓迎されたのかもしれない。「女性だけの会社」を目指し、社員が一人増え、二人増え、あっという間に20人ほどの広告製作会社「プラニングスポット」を設立した。

なぜ女性だけか?これはなんだかんだ言っても日本の社会は男社会。多分、そんな悪しき風潮を打破するためのものだと私は理解した。画期的なのは設立当時、タミちゃんのオフィスにはベビーサークルがあった。赤ちゃん連れの女性社員の事情を考えて、こんな冒険に走った。まだまだ子供のいる女性が今みたいに自由に働けなかった20年前に、タミちゃんの発想には度肝を抜かれ、そしてその快挙に拍手をおくり、尊敬した。

ナリタブライアンが走った1994年。私は長い子育てから解放され、ライター稼業に復活した。15年も現場から遠ざかったいた私はまるで「浦島太郎」。取材に同行するカメラマンの機材もその撮影方法もすっかり進歩し、今まで400字詰原稿用紙に手書きの原稿で生きてきた私は、ワープロの登場でしどろもどろしていた。

昔の知り合いに「ライター稼業復活」を宣言しても、子供を育て上げ、現場から長く離れていた私に悲しいかな仕事はほとんどこなかった。子育てを完璧にやったら、絶対にまたライター稼業に戻ろうと決意し、そんな希望に燃えて一生懸命、妻、母をやってきた私は愕然とした。自分の行き場がないのを嫌というほど思い知らされた。子育てを終えた女性の現職復帰の厳しさを嫌というほど、味わっていた。

そんな失望から体調をくずして、自律神経失調症の不快な症状に日々悩まされていた。鬱状態から自殺願望さえ出ていた。見る見るうちに7キロ体重が減った。

そんなどん底の時、タミちゃんから電話が入った。

「うちの仕事せいへん?」

すっかり関西弁が板につき、変わらぬ明るいタミちゃんの声。
私はうれしくて涙が溢れていた。しかも、家庭を持つライターでもある私の状況を思いやってくれ、取材やインタビューのアポはいつも午前中、子供が学校から帰る前に帰宅できるような配慮までしてくれた。私は水を得た魚のように、生き生きと仕事に燃えていた。あのタミちゃんの誘いがなければ、私はきっとライターを辞めていたかもしれない。

そんな状況の中で、ナリタブライアンは3冠馬に輝いてくれた。タミちゃんと同様、ナリタブライアンの疾走はそんな最悪だった私の人生の一服の清涼剤、いえ、一服の特効薬になってくれた。

タミちゃんは今また新たな希望に燃えている。東京支社の拡大だ。そのプランを語る熱弁は、まさに競馬ファンが1頭の馬にかける熱弁とよく似ていた。

その希望をかなえるにはその希望の数以上の苦労があると思うけれど、タミちゃん!がんばれ!

いや関西弁では「気張っていきや!」かな。

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