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「無名」

沢木耕太郎は大好きな作家だ。

大宅壮一ノンフィクション賞受賞の「テロルの決算」以来、すべてではないが、ほとんどの作品は読んでいる。彼の映画評も大好きだ。朝日新聞に連載している「銀の森へ」を読むにつけ、どうやったら、映画に関する感想をこれほど簡潔に素直に固くなく、自分だけの感性と言葉で描けるのかと、尊敬している。

最近出版された「無名」(幻冬舎)はここ2日間で一気に読み終えた。

物語は、死が迫る父親の看病と臨終までのエピソードだ。俳句を親しむ明治生まれの粋な父親。子供を叱りもせず、必要以上の愛情も注がず、淡々と生きてきた明治の男。沢木少年はいつも、こんな父親にはある種の距離感を置いていた。親子のようなフランクな会話はせず、いつも敬語で接していた父親。

病に侵された父を病院で看病する。その父の姿を見つめるうちに、少年時代の父親への思い出が強烈にフラッシュバックしてくる。父親の残した俳句やエッセーの中には、戦前、戦中、戦後の父親の生き様が深く濃密に込められているのを知る。そして、彼は父の作風が自分の作風にそっくりであったと気がつき、驚く。

物書きを目指した父親の姿が彼の中で大きな意味を持ち始める。しかし、父は決して「有名」にはならず、地味な市井の一人として「無名」の人生に終止符を打つ。

今は「有名」である息子と、人知れずひっそりと息を引き取る「無名」の父親。

しかし、沢木耕太郎はこう最後をくくっている。

「父は無頼の人だったか。いや、無頼とは最も遠い人だった。博打とも、女出入りとも無縁の人だった。子供に手を上げたこともなく、ことによったら声を荒らげたこともなかったかもしれない。一合の酒と、一冊の本があればよい人だった。しかし、もしかしたら、無頼とは父のような人のことを言うのではないか。放蕩もせず、悪事も犯さなかったが、父のような生き方こそ真の無頼と言うのではないか…。」

大袈裟な表現もなく、淡々と語る父親像だか、彼のどの作品にも味わえないものがあった。あまりにも、近しい存在であった肉親であるがゆえに、感情に溺れることもなく、冷静に見つめる父の臨終の最終章は、ややおもすれば無機質のような感じを与えてしまう。だが、その章もまた、放蕩も悪事も犯さなかった人こそ無頼の人である父親へのオマージュであるような気がしてならない。


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