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理解のいらない理解

「私はダリでしょう?」

 爆笑問題の太田君が、今開催されている「ダリ回顧展」のテレビのコマーシャルでこの駄洒落を言っている。これで、スペインの画家・サルバトール・ダリに興味を持った人も、たくさんいるんじゃないだろうか。ダリと太田君が結びつくこと自体、シュールリアリズムで、生誕100年を迎えたダリはやはりシュールリアリズの権化として、時を隔てても君臨しているんだと、つくづく思った。多分、マックス・エルンスト展ではこうならないだろう。

 私は大学時代にダリに出会った。一時、シュールリアリズム文学に凝っていたので、その一環でダリの絵を目にした。あの時代、若いがゆえにアグレッシブで、シュールリアリズムと名のつくものなら、何でもいいからむさぼっていた。

 でも、今考えると、なぜ、あの時代、あんなにシュールリアリズムにのめりこんでいたのか、わからない。多分、シュールリアリズム嗜好はちょっと変わった、エキセントリックなインテリに好まれていたので、ちょっと変わった人と思われるのを心の底から望んでいた私だから、ファッションの一環としてシュールリアリズムを人生の狭間に置いていたのかもしれない。
 
 だから、正直言うと、サルバトール・ダリ、マックス・エルンスト、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアールなど、片っ端から漁っていたものの、それぞれの激烈な個性がごちゃごちゃに混ざりあって、今思えば、彼らの何を見、読んできたのか、心に残っていない。つまり、激烈な個性を吸収し過ぎて、横溢し過ぎて、とどのつまり、無個性になってしまったという、虚しさである。

 それなのに、ダリ展が開催されると知ると、いてもたってもいられず、上野の森美術館に足を運んだ。多分、青春時代に愛したものにもう一度出会い、今の自分の年齢や人生の背景の中で、ダリの作品を見て、私はどんな感想を持つのかという、自分試しへの興味からだった。

 油彩画含む、60点の作品を目の前にして、私は茫然自失になった。とりわけ、299.7×254cmの大作「世界教会会議」を見た時に、心の震えが止まらなかった。見学者たちの誰もがこの絵の前で立ち止まり、誰もが溜め息をついていた。頭上にいるのはキリストか?聖母マリアと思しきダリの愛妻ガラが十字架を持ち、微笑んでいる。その全景をダリ自身がキャンパスで描き、画家ダリも見学者に何かを言わんとして、こちらを見つめている。

 約15分、この絵画の前に釘付けになっていた。この作品は何を言いたいんだろう。ダリは己の何をこの作品に込めたのだろうか?一生懸命に理解しようとした。

 しかし、いくら考えても理解できなかった。理解できないのに、この心に迫る神々の営みにホッとし、心が和み、縛りつけられていた社会通念からふーっと解放されていった。

 溶ける時計、溶けるバイオリン、溶ける文明。ダリの絵には必ずと言って出てくる、溶解の思想。全作品を見終わり、ダリの名言集が展示されているボードに辿りついた。

 そこには「誰もボクの絵を理解できない。なぜなら、描くボク自身が理解できていないのだから」というような内容のコメントが書かれていた。そうか、これだ!芸術には理解のいらない理解が厳然と存在しているのだ。理解ができないことも、また、理解の一つなのである。

 10代の頃なら、きっと、ダリのこれらの作品に観念的なへ理屈をつけて、自己満足に浸っていたかもしれない。しかし、熟年と呼ばれるこの齢になって、私は初めて、ダリという画家を理解したような気がした。

「理解のいらない理解」を知るまでにはかなり長い道のりであったが、年を重ねることもまんざら悪くないな。そう思った。

 
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