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被災地視察レポ~②気仙沼

気仙沼3
   (何もなくなってしまった気仙沼漁港)

気仙沼1

    (海に突っ込んだままの桟橋と船。かもめも心なしか寂しそう)


気仙沼2
   (スケルトン状態の水産業工場跡)

気仙沼4
    (気仙沼の名酒「男山」の造り酒屋)

  


山元町から気仙沼と早く更新したかったけど、講演や取材に追われてやっと出来上がった。気仙沼の次には石巻視察レポも続けて書きたいと思っている。



7月15日(日曜日)

気仙沼には特別、思い入れがある。というのも、ここには私の叔父夫妻が住んでいて、震災後の巨大津波の後、一週間も叔父夫妻の行方が分からなかったからだ。

3月11日、巨大地震後、巨大津波と、津波後の大火災。気仙沼は三重苦の大災害に見舞われた。

町を飲み込んだ津波の後、海の上を炎が走る。水が燃えている恐ろしいニュース映像を見た瞬間、「海で火事なんて起こるの?」と信じられなかった。

大津波からかろうじて逃げることができても、この広大な範囲で燃え上がる不気味な炎に巻き込まれたら…。気仙沼の叔父夫妻がいよいよ心配になっていた。

もしかしたら、もう生きるすべはないかもしれない。そんな絶望が胸をよぎった。

私は叔父夫妻の安否の情報が欲しくて、facebookや個人ブログで情報を募った。たまたまフェイスブックの友達から、避難所にいる人たちの名前が出ているサイトを教えてもらい、毎日、叔父夫妻の名前をチェックしていたが、なかった。


もうだめかもしれない…。絶望的な気持ちになっていた時、奇跡の声が届いた。気仙沼近くに住む親類が、叔父夫妻を見つけ、無事を伝えてくれたのだった。

叔父夫妻は高台にある別宅に逃げ、何とか、そこで、一週間暮らしていた。電気もない、電話もつながらない状態だったので、誰にも連絡することできなかった。

避難所にはたくさんの人たちが押し寄せ、みんな家を流されたり家族を失った不幸な人ばかりだったので、叔父夫妻は避難所に顔を出すのが心苦しかったそうだ。被災者でありながら、それを告知する気になれないほど人を追いつめる気仙沼の惨状がどんなに酷いものであるかを物語っている。

この優しくて悲しい遠慮が、叔父夫妻の安否情報を遅らせたのだった。

なんであろうと、叔父夫妻が無事でいてくれたことに、私はホッとした。

あれから、1年4ヶ月、私は叔父夫妻に会うために気仙沼に行った。漁港近くにある叔父夫妻の家は津波で半壊状態だった。2階はなんとか無事だったが、1階には水が上がり、家具も何もかもめちゃくちゃになっていた。

しかし、なんとか、自分たちの手で住めるような状態に戻していた。

修復した居間で獲れたてのカツオの刺身をご馳走になった。

あの地震さえなければ、この光景はかつての平和な日常のままだった。

町を飲み込み、津波に流されていく友人、知人、近所の人を叔父夫妻を見ている。それがどういうものであったかを具体的に語らない。もう2度と思い出したくもないことなのかもしれない。

「今は前を向いていかないとね。そして地震が起こったら絶対に高台に逃げること」と、叔母は重く語った。

そうか、今、叔父夫妻が求めているのは、あの悪夢のような地震と津波への恐怖より、気仙沼の復興に夢を託すしかないのだと思った。

気仙沼はベッドタウンの山元町と違って、漁業という地場産業が経済を支えている。気仙沼の被災者は家と家族とそして、仕事まで失っているのが現状なのである。町も家も家族も流され、生き残ったはいいが、仕事まで失っている悲しい人で溢れている。

漁港に出てみた。

かつては活気と賑わいを見せていた漁港には、人っ子一人いなかった。海に顔を突っ込んでいる桟橋はそのまま。気仙沼の名酒「男山」の造り酒屋は2階だけが残り、おかしなオブジェのようだった。


見渡せば、水産業の工場は骨組みだけを残して、スケルトン状態だ。


野田総理はまた、民主党の代表選で勝った。「東北の復興を一番に」と声を大にした野田総理の演説が、むなしくリピートしている。

民主党がやろうが、自民党がやろうが、もう誰も政治には期待していない。

今回の東日本大震災は、政治がなんの役にもたたないことまで露見させた。

被災者はいつまでたっても被災者のままなのだ。

被害にあったものだけがバカを見る、こんな日本を作ったのも、私たちなんだと、つくづく虚しくなっていた。



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