スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

あれから1年4ヶ月~被災地視察レポ ①宮城県山元町

山元駅
   (常磐線山元町駅 線路が塩害で腐り、雑草が強く生きていた)

おばーちゃんの家
(山元町にあるおばーちゃんの流された家の跡、土台だけをのこしている。お風呂場の市松模様のタイルだけがくっきりと浮かびあがっていた)

ガレキの遺品
  (引き取り手を失った子供たちの遺品。去年の3月11日までどの子がこのお人形で遊んでいたのか。。)


津波後の海岸
   (今は穏やかに波光きれめいているが、あの日に牙をむいてきて襲ってきた山元町の海)


震災から500日がたった。

去年の3月11日から、私の人生観は変わってしまった。日本人女性の平均寿命が86歳。順調にいけば、それを迎えるには、後、私には30年あった。そして、ノー天気な私は私が生きている間に、まさか巨大地震なんて絶対に来ないと思っていた。ましてや、巨大津波や原発事故が起こるなんて、心のどこを探ってみても見当たらなかったし、想像だにしなかった。

大好きな映画、大好きな競馬を追いかけて、泣いたり笑ったり、原稿書いたり、スポーツジムで筋トレやったり、ヒップホップダンスに夢中になったり、美味しい焼肉屋で高級な松坂牛を食べると感涙にむせたり、仕事で悩んだり、もっといい原稿が書けないかと自分を責めたり、映画や競馬の講演活動したり、家族が健康でいて欲しくて薄味、野菜中心のお料理をしたり、友達とカラオケや飲み会したり、時々、夫婦喧嘩をしたり、子供を怒ったり、知り合いのムカつく奴の悪口を吐きそうなくらいぶちまけたり。


今思えば、なんという単純で平和な日々だったんだろう。しかし、今となっては、あの平和な日々はもう二度と戻ってこない。

私は、またいつ起きるかわからない巨大地震や巨大津波、そして原発事故の恐ろしさに怯えている。

日本は確実に地震の活動期に入ってしまったのだ。

家で仕事している時でも、電車に乗っている時でも、試写室にいる時にでも、一日一回は「あ、もしかして、今大きな地震が起きたら?どうしよう」と、漠然とした未知への恐怖を抱くのが日常茶飯事になっている。

一日が終わり、寝床に着くとき、「あーあ、今日も一日無事に終わった。あ、でも、夜寝ている間に巨大地震がくるかも」と、寝るまで恐れている自分がいる。


自然災害の威力に私は打ち勝つ気力をすっかり失っている。戦おうと思っても、相手は宇宙の一部なのである。人類がどうあがいても、戦える相手ではないのだ。

多分、直接の被災地にいなくても、私のように漠然とした恐怖に怯えている人はたくさんいると思う。日本のどこに住もうが私たちにいつ何時起きてもおかしくない自然災害への恐怖が、確実に現実化されているからだ。

去年の7月中旬の今頃、夏の暑さで惨憺たる状況にある被災地をテレビで見ていた。福島第一原発事故により、着の身着のままで逃げた被災者の方々の苦しみ、連日のように報道される死者や行方不明者の数。一向に足りない仮設住宅の数、被災者への保障の遅れ、暑さに悲鳴を上げている被災者の姿をただ漠然と見ているしかなかった。

本当ならば、あの一番惨憺たる時に現場に行き、この目で見てくることが、物書きの生業だと重々承知していた。が、正直言うと、私は怖くて行けなかった。見るのが怖いとともに、もしかしたらまた大きな余震が起きて、私もまた津波に飲まれてしまうのではないかという自己防衛が働いていたのかもしれない。

しかし、時は人の気持ちを徐々にやわらげてくれる。あの強烈な恐怖がほんの少しずつだが、薄れてきている。

瞬間、「被災地をこの目で見たい!」という、いてもたってもいられない衝動にかられたのだ。いったん決めると、すぐ行動に移す私は、今回、私は宮城県の被災地を中心に7月の中旬から5日間ほど歩いてきた。宮城県は主人の郷里であるので、被災した親戚も何人かいた。彼らにも会いに行きたいと思った。

それも私の肩を押してくれた。

千年に一度しか起こらないような未曾有の大災害。死者約16000人、行方不明者約2900人もの被害者を出した、この巨大地震の報道が、時とともに風化してしもうことも恐れたからだ。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」では、犠牲になった方たちが気の毒でならないし、浮かばれないだろう。

2012年7月14日(土)

私は仙台に住む親戚のお宅を訪ねた。仙台市内の本宅は建物が若干壊れたが、被害が最小限度ですんだ。ただ、90歳になるおばーちゃんの別宅が、津波で多大な被害にあった山元町だった。おばーちゃんの家は全て津波で流され、土台の部分だけを残しただけだと聞いていた。

車で山元町に行ってみた。

常磐線が通っていた山元駅は、外観はそれほどダメージはないが、線路が塩害で腐り、その上に雑草が力強く茂っていた。まだ開通の見通しはたっていない。

2011年3月11日、午後2時46分まで、電車はこの線路を時刻表通りに走っていた。

「大津波が来る!」という携帯電話のニュースを見た若い乗客の判断で、乗務員、乗客は電車を降りて、高台に逃げ、命が助かった。

電波も途絶え、情報が全くない中で、携帯のニュースが唯一の命綱になった。


おばーちゃんの流された家の跡地に立ってみた。

山元町は海岸に面したたくさんの家々が立ち並ぶベットタウンだ。3月11日2時46分まで、ここに住む人々は普通にお昼を食べ、普通にテレビを見てくつろいでいたはずだ。多分、おばーちゃんもそうしたに違いない。たまたま隣に住む人が津波が来ることを察知して、着の身着のままのおばーちゃんを車に乗せ、高台に避難したので、おばーちゃんの命は助かった。

近所付き合いの大切さを痛感した。

それから、わずか約20分後。高さ20メートルもの巨大津波が押し寄せ、みるみるうちに町全てを飲み込んでしまった。

何も無くなったおばーちゃんの家屋の跡地に無造作に雑草が生え、西部劇に出てくるような戦いの終わった無法地帯のようだった。

かすかに人の日常生活が垣間見れたのは、お風呂場にあった市松模様のタイルだけがくっきりと浮き上がていたことだった。

去年散らかっていたガレキは集積所に積まれているが、他県の受け入れ態勢がまだ充実していなために、このガレキの山がいつになくなるかは分からない。

子供たちの遺品となったお人形が、寂しく横たわっていた。去年のあの日まで、このお人形はどの子に抱かれ、誰と遊んでいたのかと思うと心が痛んでならなかった。


海岸に出てみた。この海岸は松林に囲まれていたが、全ての松は流されて、民家から直接海をみることはできなかったはずだ。しかし、大津波が松林や民家を飲み込んでしまい、何もなくなってしまった町は、寂しい小さな孤島のように変わっていた。

この海岸の海辺にはあの忌々しい津波の後、何十体ものご遺体が引き上げられた。まるで、マグロの水揚げのように、海辺には無造作にたくさんのご遺体が転がり、並んでいたそうだ。

突然に襲った自然の災厄、あの日、まさか自分が死ぬとは思わなかった人々の阿鼻叫喚、怖さと苦しみを思うと…。

私は思わず、手を合わせていた。

1年4ヶ月たっても、復興という言葉と程遠いこの有様ならば、去年の震災後の風景がいかに酷いものであったかを想像していた。

それにしても、目の前に広がる海は穏やかで、静かで波光きらめき、この海があの日、牙をむいて、襲ってきたことなど、想像もつかなかった。想像もつかないからこそ、自然の威力の不気味さが心に重くのしかかったいた。

訪れた日は真夏日であったが、ここに立つと、一瞬、冷たい風が吹き、この世に未練を残した亡霊が何かを訴えているようで寒気がした。

明日はわが身なのである。

●山元町公式サイトより抜粋

■対応
 ○14時46分     地震発生
 ○14時47分     災害対策本部設置(2号配備)
 ○14時49分     大津波警報発令
 ○14時52分     避難指示確認
 ○15時50分ごろ   大津波襲来
 
■余震の状況
 ○平成23年4月7日(木曜日)23時32分頃、地震発生
  ※宮城県沖・山元町震度5強、マグニチュード7.1
  ※7日23時34分、津波警報/8日0時55分、津波警報・注意報解除
 
■人的被害数
 ○死者 632人(遺体未発見の死亡届16人および震災関連死16人を含む) 
  ※町内での遺体発見数674人
 ○行方不明者 1人(死亡届提出16人を除く)
 ○重傷者  9人(救急搬送分)
 ○軽症者 81人(救急搬送分)
  
■家屋への被害(平成24年7月6日現在)
 ○全壊     2,217棟(うち流出1,013棟)
 ○大規模半壊  534棟
 ○半壊      549棟
 ○一部損壊  1,138棟
 
■火災 なし
 
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。