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衆議院第一議員会館

広告媒体の仕事で民主党の某大物代議士を取材した。

「マニュフェスト」が大きく浮上した総選挙の後であったので、この取材はかなり有意義なものであった。

議員会館には夕刊紙の記者時代に何度か取材に行ったことがあった。ちょうど、ロッキード事件の真っ只中の頃だ。20代前半のまだ若かりし日の初々しい自分を、今思い出している。

初めて訪れた衆議院第一議員会館。国会議事堂に面した日本の政治の中枢部となるこの会館は、重々しく荘厳で、私にはかなり近寄り難いものだった。議員バッチをつけたお偉い代議士やその秘書たちが切磋琢磨、行き来している姿に圧倒されていた。若い娘なんか、目じゃないよ!っていう排他的な雰囲気がムンムンと漂っていた。受け付けでも若い小娘はバカにされ、公用の取材であっても、受け付けの人はどこか苦笑いをしながら許可証を出してくれた。最も、若い小娘でもきちんとしたスーツに身を包み、品よくしてたら、それほどバカにはされなかったかもしれない。何しろ、私の格好といったら、レザーの超ミニスカートにロンドンブーツ、襟が大きく開いたスパンコール付きのピースマーク君の絵柄のついたTシャツだったような気がする。70年代末期なのに、70年代初期にはやった反対制ファッションでキメテいたのも、どこかに私の中に反戦へのこだわりがあったのかも知れない。そんな私は議員会館でかなり、頗る、派手に浮いていた。

周囲にいる国会議員たちははっきり言うと、老人ばかりだった。当時の私にとって、老人の年齢の定義は70歳以上。あの当時の議員会館は多分、老人の手にゆだねられていたのかもしれない。政治は「若い者には任せられんな!」っていう老人の気合と迫力が、どの政党にも流れていた。

それから25年ぶりの議員会館。もう50に手が届きそうな私は、さすがにミニスカートとロンドンブーツはやめて、コンサバな上品な黒のワンピースを着て出かけた。墓石とからかわれる「国会議事堂」の真向かいの衆議院第一議員会館は25年前と同じく、外壁は老朽化していたが、荘厳で重々しい雰囲気はそのままだった。

極めつけは、やはり議員バッチをつけた代議士の年齢だった。私が25年前に感じたことと、全く同じであった。「ひゃー、やっぱ、お年よりが多いのは昔と同じ」そう思った。今の私の老人年齢の定義は80歳。十年繰り上がった。昔の50歳は今の40歳、60歳なら50歳、70歳なら60歳、80歳なら70歳。だから実際は80歳でも今年齢が70歳。まさしく高齢化社会を反映した所であった。

政権若返りを各政党が謳っていても、この年齢十年の繰り上がりがあるからこそ、まだ、議員会館は老人の手にゆだねられているんだと、複雑な心境であった。ま、ババーの私が議員会館が「ジーサンの世界」だった言い切るのは詭弁だが、今年齢で言ったら、私は40歳。まだ、まだ、若い方じゃないかなって、だから、言い訳してもいいんじゃない?こう言い切ってもいいなじゃない?

何も私は年寄り議員に喧嘩売っているわけじゃない。若くてもアホな議員だって一杯いる。馬に例えるなら、古馬、新馬、牝馬、牡馬なんか関係なく、純粋に強い馬が勝つのが競馬の世界。問題は国民を本当に考えてくれる政治をやってくれれば、年齢、性別なんてどうでもいいわけだ。しかし、それが、中々実現しないのが、今の政局だと思う。悲しいことである。

取材後、議員会館の地下の食堂で天ぷらうどんと玉子どんぶりがついた「和定食」(定価700円)を食べた。これは、結構上手かった。この地下には、なんと、国会に関連したグッズを販売するショップもある。カレンダー、国会手帳、キーホルダー、マグカップ。またも、競馬場のターフィショップを思い浮かべていた。滅多に議員会館には入れないので、初代首相の伊藤博文から小泉首相までの似顔絵が書かれた、メチャクチャ可愛いマグカップ(400円)を手土産に買った。

ま、そんなことはどうでもいいけど、イラクが荒れてる。各地で起こるテロ。東京もターゲットになっているそうだ。平和とテロのない世界はいつやってくるのだろうか?




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「無名」

沢木耕太郎は大好きな作家だ。

大宅壮一ノンフィクション賞受賞の「テロルの決算」以来、すべてではないが、ほとんどの作品は読んでいる。彼の映画評も大好きだ。朝日新聞に連載している「銀の森へ」を読むにつけ、どうやったら、映画に関する感想をこれほど簡潔に素直に固くなく、自分だけの感性と言葉で描けるのかと、尊敬している。

最近出版された「無名」(幻冬舎)はここ2日間で一気に読み終えた。

物語は、死が迫る父親の看病と臨終までのエピソードだ。俳句を親しむ明治生まれの粋な父親。子供を叱りもせず、必要以上の愛情も注がず、淡々と生きてきた明治の男。沢木少年はいつも、こんな父親にはある種の距離感を置いていた。親子のようなフランクな会話はせず、いつも敬語で接していた父親。

病に侵された父を病院で看病する。その父の姿を見つめるうちに、少年時代の父親への思い出が強烈にフラッシュバックしてくる。父親の残した俳句やエッセーの中には、戦前、戦中、戦後の父親の生き様が深く濃密に込められているのを知る。そして、彼は父の作風が自分の作風にそっくりであったと気がつき、驚く。

物書きを目指した父親の姿が彼の中で大きな意味を持ち始める。しかし、父は決して「有名」にはならず、地味な市井の一人として「無名」の人生に終止符を打つ。

今は「有名」である息子と、人知れずひっそりと息を引き取る「無名」の父親。

しかし、沢木耕太郎はこう最後をくくっている。

「父は無頼の人だったか。いや、無頼とは最も遠い人だった。博打とも、女出入りとも無縁の人だった。子供に手を上げたこともなく、ことによったら声を荒らげたこともなかったかもしれない。一合の酒と、一冊の本があればよい人だった。しかし、もしかしたら、無頼とは父のような人のことを言うのではないか。放蕩もせず、悪事も犯さなかったが、父のような生き方こそ真の無頼と言うのではないか…。」

大袈裟な表現もなく、淡々と語る父親像だか、彼のどの作品にも味わえないものがあった。あまりにも、近しい存在であった肉親であるがゆえに、感情に溺れることもなく、冷静に見つめる父の臨終の最終章は、ややおもすれば無機質のような感じを与えてしまう。だが、その章もまた、放蕩も悪事も犯さなかった人こそ無頼の人である父親へのオマージュであるような気がしてならない。


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