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熊本大地震

熊本で巨大地震が続いています。
熊本のみなさん、本当に大変ですね。心中お察しします。そして心よりお見舞い申し上げます。

東日本大震災の時の自分を思い出しました。強い余震におびえ、緊急地震速報がひっきりなしに流れ、そのたび心臓がえぐられるような思い、いつも体が揺れっぱなしでした。

いつ起きるか予測のつかない地震。もしかしたら、自然災害では最強ではないのでしょうか。

東日本大震災では大きな揺れ、津波、そして、原発事故という三重苦に陥りました。だからこそ、想定外の災害が起こるかもしれない今こそ、速やかに原発は止めるべきです。原発事故が起こってしまえば、その被害は福島を見れば一目瞭然ではないですか!原発は自然災害ではなく人災ですよ!
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震災から4年

4年前の3月11日午後2時46分。東日本大震災が起こりました。まさに、日本人の半分があの大きな揺れに恐怖を覚え、そして、津波と原発事故という三重苦に苦しみました。

あれから、4年。今でも、約23万人の人が避難生活を強いられ、家族と離れて暮らしている人も多数います。

安倍総理は「福島は完全にいい方向に向かっていると」と、記者会見で話してましたが、本当にそうでしょうか?

まだまだ、原発事故の出口は見つかっていないと思うのです。

ドイツのメルケル首相が来日し、ドイツは福島の原発事故を目の当たりにして、原発を廃止したと言っています。

それなのに、政府はまたまた原発を再稼働しようとしています。

この矛盾を持った国が今の日本なのかもしれません。

私は自然災害で死ぬのは嫌ですが、原発事故で死ぬのはもっと嫌です。

東日本大震災が教えてくれたのは、「核の平和利用などない」ということでした。

この教訓を生かしていかなければ、原発で亡くなった人、原発で家族がバラバラになってしまい、未だに避難生活をして苦しんでいる人に申し訳がないと思うのです。

とにもかくも、あの悲惨な震災から4年。まだまだ、日本は、いえ私自身も復興へ気持ちをさらに強くしていくべきだと思っております。

震災でお亡くなりになった方に黙祷…。ご遺族の方には心からお見舞い申し上げます。

福島の新米


福島米





いつも生協でお米を買い、宅配してもらっていたが、昨日、米びつを見たらカラになっていた。

あわてた私は、スーパーに駆け込み、米売り場に直行した。

そしたら、福島産の新米が5キロで1450円という安さ。

新潟、宮城産ならその倍の価格で売られていた。福島のお米には何の責任もないのに、安く叩かれている。なんだか、福島産のお米が気の毒になり、買ってきた。

福島はまだまだ、復活していない。

昨日、小泉元総理が「即原発ゼロ」と訴えていた。元総理の発言は重いし、インパクトがあるはずだ。

これが引き金になり原発ゼロの日本になってほしいもんだ。

原発は「トイレのないマンション」の怖さが日増しにつのっているので…。

被災地視察レポ③石巻

石巻門脇小学校
(戦争の跡地のような門脇小学校)

石巻門脇小学校ランドセル
(生徒のランドセルが1年4ヶ月たつにもかかわらず放置されている)

石巻門脇小学校2
(壊滅的な校舎。地震と津波と火災、胸が痛くなる)

石巻日日新聞小
(現在の石巻日日新聞社)

石巻日日新聞3月12日号
(手書きで書かれた壁新聞。3・11の翌日から記者やカメラマンが報道した)


門脇小学校野球

(廃墟の前で、野球部の子供たちが未来に向けてバットを振っている)



怒りというよりも、虚しさで心がパンパンになった。

市民の血税で集められた復興税が、被災地のために使われず、官庁施設の改修費などに使われていたという事実。

復興予算という庶民の善意で集められたものが、復興のためでないことに使う国なんて日本だけじゃないの?

振込み詐欺みたいなことを国が率先してやっている民主党は、ここまで落ちてしまった。


怒りより虚しさと絶望。

訪れた被災地の人たちの気持ちを考えると、情けない。そして悔しい!

山元町、気仙沼と、最後に訪れたのが石巻だった。石巻には親戚や知り合いがいなかったので、その現状をかなり
冷静に客観的に見ることができたと思う。

この3被災地に共通することは、一向に復興が進んでいなかったという忌々しい事実である。
瓦礫は集められた集積所に山のように並び、他県への受け入れがない限り、ずっとこのままである。津波で流されてしまった家々の土台だけが、壊れた将棋版のように無造作に、だだっ広く並んでいた。

車で移動中、長崎、広島の原爆の跡地みたいな廃墟が目に入った。門脇小学校だった。
幸い、生徒たちは学校の裏山に逃げたので、犠牲者は最小限度に済んだもの、何名かの幼い命が奪われたことも事実である。

巨大地震、火災、そして大津波に襲われた小学校。教室の中を覗くと、ランドセルが放置され、黒板には3月11日の日直さんの名前が書かれていた。

背筋が凍りつくような凄惨さに言葉も出なかった。

57年間も生きていれば、色々と悲しくてやるせないシーンに遭遇することも多々あったけど、この門脇小学校の酷さは頭に焼き付いて離れない。

何よりも、敵が自然現象であるからこそ、怒りの矛先のぶつけようもなかった。

この日、廃墟になった校庭で、野球部の生徒が野球の練習をしていた。命の助かった生徒の保護者の方がいらしたので、あの日のことを聞いてみたが、言葉は重かった。

しかし、助かった生徒たちは泣いてばかりはいられない。少しでも元の生活を取り戻そうと前向きに生きている。


石巻新聞社。

ここは被災後、テレビのドラマにもなった地元新聞社である。一階は津波で飲まれたが、幸い2階だけの社屋は無事だった。パソコンも輪転機もない状態の中で、記者やカメラマンは命を張って、手書きの壁新聞を作り、各避難所の被災者に情報を発信した。

これこそ報道の原点なのかもしれない。この壁新聞の情報により、たくさんの被災者の方が生き延びることができたと言っても過言ではない。


まだまだ、心に残る痛いシーンはたくさんあった。

1000年に一度という未曾有の大災害を、この目で見てきたことは、私の人生に何かを与えてくれた。

その何かがやるせないものであったり、怒りであったり、悲しみであったりと。

しかしどんなに逆境の中でも、山元町のおばーちゃん、気仙沼の叔父夫妻のたくましさ、そして、廃墟の前でもめげることなくバットを振り上げ、大好きな野球に興じ、元の生活に戻そうとする門脇小学校の野球部の子供たち。

幼い球児がパーんとヒットを打った。勢いのいい音が心地よく響き、大空に向かってボールが飛んでいく。

そのボールが負けないぞ!絶対に負けないぞ!と言わんばかりに、未来への希望と夢へと誘っていた。。

どんな絶望の中でも、人は生きていける。


被災地視察レポ~②気仙沼

気仙沼3
   (何もなくなってしまった気仙沼漁港)

気仙沼1

    (海に突っ込んだままの桟橋と船。かもめも心なしか寂しそう)


気仙沼2
   (スケルトン状態の水産業工場跡)

気仙沼4
    (気仙沼の名酒「男山」の造り酒屋)

  


山元町から気仙沼と早く更新したかったけど、講演や取材に追われてやっと出来上がった。気仙沼の次には石巻視察レポも続けて書きたいと思っている。



7月15日(日曜日)

気仙沼には特別、思い入れがある。というのも、ここには私の叔父夫妻が住んでいて、震災後の巨大津波の後、一週間も叔父夫妻の行方が分からなかったからだ。

3月11日、巨大地震後、巨大津波と、津波後の大火災。気仙沼は三重苦の大災害に見舞われた。

町を飲み込んだ津波の後、海の上を炎が走る。水が燃えている恐ろしいニュース映像を見た瞬間、「海で火事なんて起こるの?」と信じられなかった。

大津波からかろうじて逃げることができても、この広大な範囲で燃え上がる不気味な炎に巻き込まれたら…。気仙沼の叔父夫妻がいよいよ心配になっていた。

もしかしたら、もう生きるすべはないかもしれない。そんな絶望が胸をよぎった。

私は叔父夫妻の安否の情報が欲しくて、facebookや個人ブログで情報を募った。たまたまフェイスブックの友達から、避難所にいる人たちの名前が出ているサイトを教えてもらい、毎日、叔父夫妻の名前をチェックしていたが、なかった。


もうだめかもしれない…。絶望的な気持ちになっていた時、奇跡の声が届いた。気仙沼近くに住む親類が、叔父夫妻を見つけ、無事を伝えてくれたのだった。

叔父夫妻は高台にある別宅に逃げ、何とか、そこで、一週間暮らしていた。電気もない、電話もつながらない状態だったので、誰にも連絡することできなかった。

避難所にはたくさんの人たちが押し寄せ、みんな家を流されたり家族を失った不幸な人ばかりだったので、叔父夫妻は避難所に顔を出すのが心苦しかったそうだ。被災者でありながら、それを告知する気になれないほど人を追いつめる気仙沼の惨状がどんなに酷いものであるかを物語っている。

この優しくて悲しい遠慮が、叔父夫妻の安否情報を遅らせたのだった。

なんであろうと、叔父夫妻が無事でいてくれたことに、私はホッとした。

あれから、1年4ヶ月、私は叔父夫妻に会うために気仙沼に行った。漁港近くにある叔父夫妻の家は津波で半壊状態だった。2階はなんとか無事だったが、1階には水が上がり、家具も何もかもめちゃくちゃになっていた。

しかし、なんとか、自分たちの手で住めるような状態に戻していた。

修復した居間で獲れたてのカツオの刺身をご馳走になった。

あの地震さえなければ、この光景はかつての平和な日常のままだった。

町を飲み込み、津波に流されていく友人、知人、近所の人を叔父夫妻を見ている。それがどういうものであったかを具体的に語らない。もう2度と思い出したくもないことなのかもしれない。

「今は前を向いていかないとね。そして地震が起こったら絶対に高台に逃げること」と、叔母は重く語った。

そうか、今、叔父夫妻が求めているのは、あの悪夢のような地震と津波への恐怖より、気仙沼の復興に夢を託すしかないのだと思った。

気仙沼はベッドタウンの山元町と違って、漁業という地場産業が経済を支えている。気仙沼の被災者は家と家族とそして、仕事まで失っているのが現状なのである。町も家も家族も流され、生き残ったはいいが、仕事まで失っている悲しい人で溢れている。

漁港に出てみた。

かつては活気と賑わいを見せていた漁港には、人っ子一人いなかった。海に顔を突っ込んでいる桟橋はそのまま。気仙沼の名酒「男山」の造り酒屋は2階だけが残り、おかしなオブジェのようだった。


見渡せば、水産業の工場は骨組みだけを残して、スケルトン状態だ。


野田総理はまた、民主党の代表選で勝った。「東北の復興を一番に」と声を大にした野田総理の演説が、むなしくリピートしている。

民主党がやろうが、自民党がやろうが、もう誰も政治には期待していない。

今回の東日本大震災は、政治がなんの役にもたたないことまで露見させた。

被災者はいつまでたっても被災者のままなのだ。

被害にあったものだけがバカを見る、こんな日本を作ったのも、私たちなんだと、つくづく虚しくなっていた。



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